下町ダニーローズ第21回公演「不幸の正義の味方」
サンモールスタジオ(新宿)
2019年 6月1日(土)13:30開演
でもそう思うでしょ?
これなんです。悪い正義があるという意味ではない。自分の正義は正しくてあいつの正義は間違っているでもない。正義ほど怖いものはない、暴走するという事。だから私は貴乃花が正義なんて言わない。駄目な所はある。でも擁護する。協会擁護の人は協会が正義で貴乃花が悪と決めつけてやしないかという事 https://t.co/UKdyx7ct6p
— 志らく (@shiraku666) March 19, 2018
しかし…。ひじょうに心許ない気持ちになってくる。「正義」という一語をとっても自分と同じことを指しているのか? 理屈よりも、状況を切り抜けることや誰を擁護するのかとかいうことのほうが大事なのかも? などと、いろいろな疑問が頭をよぎるが、あれこれ分析したりすることはやめておく。読まされる人も迷惑だろうし、何かを誤魔化してしまいそうだから。
言葉なんて案外いい加減なものだ。
正義なんてほったらかして、掃除や洗濯をして気分をすっきりさせたり美味いものを食べたりした方が有意義なのかもしれない。その方が幸せだろう。生きていればいろいろな矛盾もあるが、結局は堪えるしかない。我慢していれば楽しいこともある。運よく好きな人が見つかってプロポーズするときのために、大切な言葉はとっておこう。なんてロマンチックな人生にあらゆる障害を乗り越えて飛び込んでいくなんていうのも悪くない。だけどそんなに生易しいものではないだろう。なによりも、この世はそんな人生の邪魔をする敵ばかりだ。悪い人間が大勢いるとかそういうんじゃない。もっと当たり前でちっとも悲しくない話。ここで自分の体験談を例に説明した方がいいだろうか? まぁ、何の得にもならないのに敵にそんなことを教えはしないよ。そーいうこと。その敵が「正義」と呼ばれることもあるだろう。
さて、志らくの「不幸の正義の味方」の話をしていたんだった。
落語も演劇も掃除や洗濯とは違う。
冒頭、登戸駅の付近で起こった殺傷事件についてテレビで発言したことなどを喋った後、あらかじめ予告していた「芝浜」の短縮版を披露。短くしたというよりは、あらすじを述べたあと最後の部分だけ切り取ったという内容なのだが、一瞬で物語の中に引き込まれた。なんだかこっばずかしい話で困りはしたけれども…。
志らくがしゃべり始めても客席が明るいままで、実際はどうかわからないが演者からこちらが見えているような気がする。こちらにも緊張を強いるような演出だけど、リラックスして劇を見られたのは、続けて志らくがブルースハープで演奏した「ムーンリバー」のおかげかもしれない。
「ムーンリバー」はとても好きな曲だ。映画「ティファニーで朝食を」の主題歌らしい。映画だったら私の場合「ふたりにクギづけ」を思い出す。この曲の歌詞をネットで調べてみた。
そんな「ムーンリバー」に元気づけられるようにして、劇は「不幸の正義の味方」の物語へと突入していく。
2026年、箱根の温泉旅館。家族を集めて美濃部伊三郎が告白をする。「正義の味方になるために改造人間になった」。パンフレットには、下町ダニーローズの最高傑作「不幸の家族」の続編とあるが、物語が進むにつれてどんどん疑問符が増えていく。ついには死神団との決戦へといたるが、なぜか温泉旅館から出ることはない。
私もそこまで頭は悪くない。芝浜の「よそう。また夢になるといけねぇ」というオチを聴いたばかりでもあるし、この物語が夢だったという結末になることはある程度察知できる。意外な展開に驚くというような演出でもない。
「芝浜」の結末は庶民の日々の生活の苦痛を想像させながらも、「現実」が「夢」にすぎないという本気で考えると危険にも思えるイメージに帰着する。「不幸の正義の味方」の場合は、夢が覚めて同時多発テロが起こっていなかったことよりも、死んだ親友はもう帰ってこないという現実の残酷さが心に残る。
ところで、舞台中央の大きな円いテーブルを見た時に思い出した映画がある。
「荒野の決闘」。ウィキペディアによると「1946年のアメリカ映画。ジョン・フォード監督による西部劇映画の古典的な作品である。主演はヘンリー・フォンダ。OK牧場の決闘を題材としている。詩情溢れる西部劇の傑作として名高い。」
この映画に、シェイクスピア役者がならず者たちに銃で脅され、テーブルの上でハムレットを演ずるというシーンがある。役者は緊張しているのかセリフに詰まってしまうが、ドク・ホリデイがセリフの続きを言って助ける。決闘とはあまり関係はないが印象に残るシーンだ。
いっぽう、「不幸の正義の味方」において、テーブルの上で何がくりひろげられるのかというとそれは、正義の味方への変身である。変身というか服を脱ぐだけ。全身タイツを基調としたコスチュームは、正義の味方というよりも劇団の研究生と言った方が近い。それから派手で頭の悪そうなサングラス。情けなくて弱そうな見た目。リアリティーを追求したのだろうか? 主人公のセリフにもある。
正義の味方は五人組。名は「動物戦隊アニマルファイト」とのこと。ちなみに志らくはブルーフロックマンで蛙。間違いなく馬鹿々々しい。なんか「世紀末戦隊ゴレンジャイ」とか思い出すわ。教室の端っこセンス。
今回は舞台の台本が販売された。読んでみると、当日にモロ師岡が何を言っているかわからなかったところは、意地悪な志らくがわざと早口言葉みたいなセリフを書いていたり、「チャウチャウ犬やからちゃう、ちゃうというちゅうのはちゃう」というセリフを読んでいるとキム兄の声が聞こえるような気がしたりして楽しい。台本と自分が見た公演をくらべて、どのように演出を変えたか、あそこはアドリブか? なんてことをファンは考える。何度も劇場に行くリピーターもいる。
ある種の人間は(すべてではないと思う)、他人から見ればほとんど意味のないようなものに固執してそこに喜びを見出す。好きな作家の小説を読むだけでは飽き足らず手紙や日記まで読んでみたり、同じアルバムを何度も聴いたり違うバージョンの録音を聴いて意味を推理してみたり、ある監督の映画をぜんぶ観て共通する特徴や形式から作家性をでっち上げてみたりといった具合だ。アニメファンは声優の名前をたくさん知っている。ミステリファンはテレビドラマを見て、オマージュだパクリだ盗作だと怒りだす。競馬ファンが脚質のことを語りだすとほとんど意味が分からない。
まるで探偵が殺人犯を当てるように、作品から制作者の背景や人格、かくれた意図やメッセージを読み取る。そういう行為の裏には、かくれたナイーブさや人間に対する怯えがある。というと偉そうにきこえるかもしれないが、私のことだ。
ならず者ではなくドク・ホリデイ。
立川志らくの笑いは、か弱い。テレビに出ている他のお笑い芸人と比べるとよくわかる。
他の芸人はなにかがもっとしっかりとしていて、媚びたりねじ伏せたりいろんな手を使って笑いを取りにいく。
笑いに対して志が高いのかたんなるわがままなのか、志らくはそういうことをあまりしない。普通にしゃべっている。人一倍努力しているのにだ。知識の量がハンパじゃない。
以前、 濱田祐太郎と共演したとき、志らくが彼に「嫉妬した」といっていたのをきいて、リップサービスじゃなくて正直な気持ちだろうと思った。何かが似ている。
志らくの笑いが「か弱い」といっても、ファンに助けられているとかそんなことではない。
それが志らくの才能だってこと。
とにかく、情けなくて弱い「不幸の正義の味方」を笑えるという事は悲しむべきことではなく、やはり、喜ばしいことだと思うのだ。
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2020.02.11 12:12