志らく独り会

紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

10月18日(木)18:30開場 19:00開演

全席指定 ¥4,000



こちらのプログラムに載っている、志らく本人による解説をすべて引用する。



 志らくの新作落語は、新作落語ではなく進化系落語といったほうがわかりやすい。いわゆる新作落語は古典のスタイルの中でやっている。

 着物を着て正座をして座布団に座ってかみしもを切って喋る。それが決して悪いわけではないが、古典落語より下に見られる要因はそこにある。

 本日、私が披露する落語はシネマ落語と現代落語。シネマ落語は志らくの代名詞。通常のシネマ落語は全段階に古典落語を二席演じ、その後日談として成立しているのだが、「天国から来たチャンピオン」は一席で成立している稀有なシネマ落語。スタイルは古典落語。内容も古典落語である。余談だが、よく古典落語も出来た時は新作だという人があるがそれは間違い。古典、すなわちクラシックというものは出来た時からクラシックなのである。つまり永遠性を持ち合わせている作品という事。

 新作はその時の流行に乗るものであり、やがて消え去る。勿論、新作が古典に転ずる場合もあるが。

 で、シネマ落語「天国から来たチャンピオン」は古典落語であるという自負を持っている。

 もう一席「不幸の伊三郎」。これは元々は私のひとり芝居である。ひとり芝居のスタイルを落語に寄せたのが今回である(因みに来年はこの「不幸の伊三郎」、その続編である「不幸の家族」をより演劇的にするプロジェクトを立ち上げる)。演出上、釈台を用い、音楽を入れ、古典落語のかみしもを切る手法、ひとり芝居の一人称の形式、更にはひとり語り、楽器の演奏、そして座布団から立ち上がっての芝居、つまりひとり芸のあらゆる手法を駆使したのが「不幸の伊三郎」なのである。だから現代落語と言った方がしっくりとくる。

 兎に角、普通の落語会では体験出来ないような世界に誘います。ごゆっくりお楽しみ下さいませ。

立川志らく




昔からの落語ファンが「生意気だ」と怒りだしそうな文句ではある。しかし意外でもなんでもない、最近の志らくを見ていれば大体予想できることだ。私は落語ファンというより志らくファンなので、はりきって早くからチケットを買い、新しいスーツを着て会場へ出向いた。とても楽しみである。車窓から見る夕方の景色は、平和で穏やか。中学のときの部活帰りを思い出した。

たまに、こういう催しに着ていくものを、あまり気にしない人がいる。「演者さんからは見えていない」「みんな演者を見に来るのだ。あなたを見に来るわけではない」。御尤もな意見だ。それでも自分の気持ちを着るものに反映させたい。たとえ結果的に「新入社員みたいな格好をしたオッサン」でもだ。同行者からは喫茶店で、「スーツを着ると老けて見えるね」と言われた。

気にしない気にしない。ひとやすみひとやすみ。気を取り直して、会場に着き席に座る。そろそろ公演も始まろうという時間なのに、舞台中央に臨む視界のなかに一列の空席。招待客の席だろうか…。腹立たしい、あまりに腹立たしい、三度腹立たしい。ステージをドタキャンしたジュリーはこんなことを許さないはずだ。どうなのよ? 志らく。

さて、シネマ落語「天国から来たチャンピオン」。映画をあらかじめ観ておいた。

アメリカ映画。原題は「Heaven Can Wait」。エルンスト・ルビッチの1943年「天国は待ってくれる」を思い出すが、まったく関係ないとのこと。原作の舞台劇からとったタイトル。1941年に制作された映画「幽霊紐育を歩く」のリメイク。

幽霊があちこち歩きまわったり人に乗り移ったりする話で、キリスト教文化のアメリカではどのように受け止められていたのだろうかと思う。むしろ日本の落語の噺だといわれたほうがしっくりくるようなストーリーなのではないか。志らくがシネマ落語にこの映画を選び、今その噺を「古典落語」だと豪語するのもうなずける。何度もリメイクされているというところも、伝承芸能の落語と通じるものがあるのではないかと思う。

映画の「天国から来たチャンピオン」のなかには、「先祖代々之墓」と刻まれた日系人の墓もでてくる。そこで日本のことをかなり意識した映画だと考えてみれば、ルビッチの「天国は待ってくれる」だって、そう関係なくもない。なんせ閻魔大王が登場するくらいだからかなり意識している。残念ながら観ていないのだが、「幽霊紐育を歩く」も同じなのではないか。なんでそんなに意識するのかって? そりゃあ戦争をしたぐらいだもんなぁ。

幕が上がると、前座も前置きも無しで、いきなり本題に入る。

まだ死ぬはずではなかった花火師を、死神が間違えて三途の川まで連れてきてしまう。自分の身体に帰ろうとするがもう焼かれてしまっていて、代用として女房に殺されたケチで嫌われ者の金持ちの身体を提供される。仕方ないのでその金持ちの男として生きていくことにするのだが、貧乏人を救い、恋に落ち、花火も上げる、といったような話を、必要以上に笑いは取らず、ひじょうに的確に語っていく。

映画にくらべると、耳で聞く落語というものはなにか細い道を進んでいくような感覚がある。イメージの幅が狭いというか、集中してないとなんだかわからなくなるというか、いろいろな解釈を許さないというのか。物語に引き込まれ、これから起こることを忘れ、登場人物に感情移入する。映画は逆再生しても何をやっているのか大体わかるけど、落語を逆再生したらさっぱりわからないだろう。私は映画において物語と感情移入は必ずしも重要ではないと思っているが、落語においてはそれがないと始まらないんではないか。どうだろう? 落語初心者なので自信はない。

ハッピーエンドのこの噺をとても楽しく聴いたのだが、一瞬静かな悲しみに包まれるシーンがある。それは主人公の花火師が、自分が誰であるかを忘れてしまうというところ。いつも志らくが言っている「談志は志らくの身体の中にいると決め、談志が私の中から消えた時に志らくは名人になるのだ」という言葉が浮かび、その花火師と志らくの姿が重なった。プラス感情移入。

目の前の空席を見て思う。「古い噺しか聴かないという志らくのファン、ホントわかってねぇ。」



中入り後、新作落語「不幸の伊三郎」。

続編の「不幸の家族」は演劇も落語も観ている。向田邦子の影響を受けた、男女の三角関係を中心にした物語だった。そこが今回は家族中心の話というのが、志らくの洗練された洒落みたいなものを感じる。

いろんなものを逆にするというのは志らくがよく使う手で、わかっていても笑ってしまうんだけど、それは落語によくあるやり方なんだろうか。かもしれない。教養不足でわからない。今回驚いたのは、最後のほうで一度やったくだりをフラッシュバックするときに、逆の視点から見せたところ。最近の面白かった映画でも同じことをやっていて、やはり志らくは教養があるんだと思わされた。

ひとり芸のあらゆる手法を駆使し繰り広げられるのは、映画「ファイナル・デスティネーション」ばりの、小さな不幸に次々と襲われる伊三郎の世界。愛する妻は、素材そのものの味をだいじにする。歳に似合わず通好みの渋い趣味をもつ息子と、髪を金色に染めた暴走族の食欲旺盛な娘。郷愁をさそうノスタルジックな品々―――。キンチョール。ベープマット。ムヒ。トイレのカッポンカッポン。正露丸。柱に刺さった釘。夏の暑い部屋と扇風機とうちわ。憶えなくちゃいけない電話番号。ロケット花火。ドラゴン。スーパーボール。えとせとらエトセトラetc。

抽象化され限りなく単純になった、落語。増幅された笑いにいろどられる、ヒップホップ的な現代落語。

そして最後に提示されるのは、何の前触れもなく訪れる死と、それをどう理解していいのかわからず途方にくれる残された人間。断絶。死と悲しみ、生と喜び、現在と過去と未来も、わたしとあなたも、すべてが断絶してしまった世界。



最後に「天国から来たチャンピオン」の現代版とでもいうべき映画を紹介する。

デンゼル・ワシントン主演 トニー・スコット監督 「デジャヴ」(2006)

幽霊も天国も閻魔大王も出てこない、テロリストと刑事と車と銃とナイフと爆薬と科学技術の、苦痛に満ちた現代アメリカ映画。ハッピーエンド。興味があったらぜひ観てください。


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